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四旬節第4主日「小さな聖書」

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」これは、モーセが竿の先に蛇をあげたように、主イエスご自身も人々を救うために十字架の上で死ななければならない、という意味です。竿先の蛇も、十字架のキリストも、民が神に背いた罪の故に、その罰を逃れることの出来ない民が、救われる唯一の道でした。主イエスが、わたしたちの罪を償うために十字架にかかられたことを信じて、十字架を仰ぎ見るとき、わたしたちに救いが与えられます。

神がわたしたちを救うために与えてくださった律法を、わたしたちは誰一人として守ることが出来ません。わたしたちは、律法に照らして自分の罪を知り苦しみます。神は、罪ゆえに苦しみ、自由を失っているわたしたちを見て憐れに思い、罪の縄目から解放してくださいました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」キリストは、わたしたちのために十字架にかかり、罪と死に勝利してくださいました。わたしたちがそのことを信じることによって、罪から自由になった命、すなわち永遠の命を得ることが出来ます。

神が罪の奴隷となっているわたしたちを憐れんで、わたしたちが出エジプトを果たせるように御心を語ってくださるのが福音です。この世には、福音を必要としていない人は一人もいません。にもかかわらず、まだ福音を聞いていない方が沢山おられます。わたしたちは、福音を聞き、神の愛を世に伝えるために、礼拝に招かれ、そしてこの世に遣わされていきます。

神が独り子をお与えになったほどに、世を愛された出来事が、主の十字架です。この事実を正しく世に伝えていくのが、わたしたちの使命です。主にあって、見たこと聞いたことを証ししていきましょう。

宮崎教会牧師 木下 理

顕現節第6主日「主の御声に」2012.2.12

「尊い御声に」

マルコ二章一~一二節

中風の人には、彼を助ける四人の男がいました。
彼らには、主イエスの前に、この病人を連れてさえ行けば、この人は必ず癒される、という確信がありました。
しかし、群衆に進路を阻まれた四人は、病人を主イエスのもとに運び込むことが出来ません。
他人の家の屋根に穴をあけ、イエスがおられる部屋の中に中風の人をつり降ろす、という常識では考えられないことを、四人は行いました。
彼らの熱心な信仰に目をとめられた主イエスは、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」、と言われました。
人の心の奥底を知っておられる主イエスは、この人を苦しめているものが何であるのかを見抜いて、彼が求めた病の癒しより、更に根本的な罪の赦しを彼に与えられました。
この御声は、罪を自覚するゆえに、長い間苦しんで来た人にとって、これ以上の救いの声はありません。
さらに主イエスは、「起き上がり、床を担(かつ)いで家に帰りなさい」と告げられました。
中風の彼は、人の見ている前で起き上がり、床を担いで家に帰って行きました。
自分の足で自由に歩けるようになった喜びは、重い病になり、ながい間、苦痛と不自由を味わった者でしか、分らないものです。
しかし、この主イエスの癒しによる大きな喜びも、罪を赦された喜びに比べれば、一時的なものです。
病人は、他者のお世話にならねばなりません。
人のお世話になることは、神さまがその人に謙遜と感謝を教えられていることではないでしょうか。
今元気なわたしたちも、必ず人のお世話になるときが来ます。
それは、他者に重荷を与えることだけでしようか。
主イエスがわたしたちの罪を赦してくださった、恩恵ではないでしょうか。
わたしたちは、感謝してこの恵みを受ければよいのです。
 わたしたちが主の御声に耳を傾けようとしないなら、罪の重荷に自由を奪われている、足腰の立たない者と何ら変りません。
わたしたちを救う尊い声に耳を傾けていきたいと思います。

牧師について

木下 理

1953年に熊本市に生まれたわたしは、高校を卒業した後、熊本県内における33年間の会社勤務を経て、2004年 東京の三鷹市にあります日本ルーテル神学校に入学しました。神学校での四年間の学びと教会での実習や研修を終えて、2008年に牧師となりました。
牧師となって最初の任地は、日本福音ルーテルシオン教会です。シオン教会では、山口県の徳山と島根県の益田および六日市の各チャペルを担当しました。
三年間の伝道・牧会を経て、2011年4月 日本福音ルーテル宮崎教会の牧師として着任し、今日に至っています。
聖書の中で、私を励ます聖句の一つをご紹介します。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくた、と見なしています。」フィリピの信徒への手紙3章8節の御言葉です。
キリスト教の中心をなす出来事は、わたしたちを救うために十字架にかかってくださったイエス・キリストの死です。イエスの死が、今生きているわたしたちにとって、どのように意義あるものなのか、正しく告げ知らせることがわたしの使命だと思っています。