復活節第2主日 2025年4月27日

先日の日曜日は復活祭でした。その前は枝の主日でした。イエス様が明るい雰囲気でエルサレムを入場しました。木曜日は最後の晩餐、園の中での必死の祈り、裏切りと逮捕、裁判。やがて聖金曜日にイエスは十字架にかけられ、残酷で孤独な形で死にました。常識的に考えれば、ナザレのイエスの宗教改革運動は十字架の死で終わりを告げたはずです。世俗勢力、宗教勢力に嫌気がさしてしまい、社会の秩序を脅かす人として死刑にされました。イエス様の弟子たちは逃げて、混乱と戸惑いを覚えました。しかし三日目の日曜日、お墓の中に安らかに眠っているはずのイエス様のご遺体はお墓にはありませんでした。弟子たちは婦人からそのような報告を聞くと、ナンセンス(無意味な戯言)だと受け止めました。ペトロは自分で確かめようと思いました。お墓は確かに空っぽでした。ペトロはまだ復活のイエスを信じませんでした。主の復活は騒がしい勝利宣言で始まるものではなかったのです。一生懸命に考えて、理性により悟りを得た訳でもありません。復活したイエス様を個人的に体験することにより信仰が芽生えました。十字架と復活の福音のみことばには力があります。私たちの心を作り変える力があります。みことばは私たちに語ります。主はまことに復活されました、ということを。